講義形態がこうである理由。
講義というできごとが成立する為に必要な要件
講義の構造分析
①確定された真理の存在、もしくはその途上にある知という信念
②真理は客観的で合理的である、それゆえ公共的に共有可能で、説得的に教授可能である。
③真理もしくはその途上にある知を習得した者
④真理もしくはその途上にある知を習得しようとする者
付随的に、一対多のコミュニケーション形態である理由
⑤習得しようとする者が多数の場合、時間的経済性が確保
⑥習得しようとする者への平等な対応が可能
だが出版技術が未成育な社会ならともかく多様なメディアがある現在、一か所に多数が集合するのは不合理。
上記の前提の下に習得しようとする者が集団で、習得した者を雇用することから、中世大学での講義が始発した。→むしろ消費者モデル
近代大学・・経済システム/政治システムに対抗する文化システムという理念 ↓ 大学自治
経済による侵食・・文化的ラディカリズムの終焉
労働者の選抜機能(ブルデユー) 文化資本 →日本は更に名目的形式的
後期資本主義の大学の姿とは?
だが、
現在・・・・・⑤⑥は無意味化し、③④の存在も疑問である。
習得への意志が、習得すべき命令(必修)に侵略
ただ①②が信じられているかぎりで、形式的に残っているのが大教室の講義
では、①②は信じるにたるものか?
娯楽型講義の可能性・・経済的問題 大学は貧しい・・エンタティナーは高い
科学哲学的反省
近代科学の妄想・・主客二元論に基づく、合理的客観的な説明が可能だ。
近代主義の歴史性
社会科学・・・より近代科学的な自然科学を模範
だが、 自然科学・・・量子力学 HEISENBERG
観察の問題
観察の理論負荷性 HANSEN
パラダイム論・科学革命 KUHN
共約不可能性 anything goes FEYERABEND
すると、
科学としての成熟度が劣る。
とくに、他者=人間という対象・・特権的(社会的客体)
とうてい、
社会学が近代科学的に振る舞うことの無理
社会学の社会学的反省
社会学的相対主義・・・数学でさえ 社会学の存在拘束性 MANNHEIM MARX すべての社会学的学説はある社会的条件に依存する
階層、階級、民族、性・・・
客観性の保証は得られない。
一部の集団のイデオロギーでしかない
真理と権力・・社会学のフーコー的反省
真理とは、何か深遠で崇高な達成目標ではない。
ある一定の社会編成を、つまり人と人の関係の形を作り上げるための 仮想の準拠点である。その社会を生産する権力と不可分。
エピステーメー
真理=権力 知=真理=主体
近代の人間科学(医学、生物学、臨床心理学、経済学、教育学、言 語学、社会学)・・・人間の真理をめぐるゲーム
「労働主体」「悩む主体」「学ぶ主体」「語る主体」「秩序を作 る主体」として、真理との関係で、知は人間存在を主体化した。 「人間はたかだか200 年程度の発明品だ、いずれ終焉する」
社会学の現象学的反省
ちまたの現象学的社会学とは一線を画す。
現象学の概念を使用した、対象分析だけなら本末転倒。
現象学的還元、生活世界への還帰
経験構築、現実構成、自然的態度
科学の営み、科学的に見る考える、さらに無自覚に前提とされる現実それ自体・・・人間の経験構築のひとつ
間主観的な意味世界、生活世界を介して、人は理解・経験する。
理解・説明する→自分にわかるように理解・説明することでしかない。 理解や説明は、ある人の論理で他の人を支配することではないか。
相互支配ならまだしも、科学は特権性を主張する 科学的理解こそ、他に勝り、他を排除する資格があると思ってる ↓
現象学は、自明の自分の生活世界を主題化し、自己の理解の源泉を反省する ように、その間主観的構成を明らかにするよう促している。
↓ 研究者自身が問題化 客観的な性格は持ち得ない。 ethnomethodology・・真理であるかのように作り上げる作業
社会学の実存主義的反省
社会学・・・・他者を相手に、他者を理解し、説明しようとする。
社会学をすることそれ自体が、人間関係である。
まして、社会学の歴史的存在理由である、社会調査はそれを体現。
出会うことによる他者理解と自己理解の反復
他者とかかわらざるを得ない・・・責任が課せられる。
社会学それ自体が、社会参加であり、アンガジュマン
もちろん無価値な社会参加もある。
社会から無視されるような社会学の営みもある
(大学のようなところで博物館的に保存
現代社会論はおのずと現代社会に参加し、介入せざるを得ない。 現代社会に生きる人と身体的な相互行為を作らされてしまう。
科学の知から、臨床の知へ 中村雄二郎 「1、近代科学の知が原理上客観主義の立場から、物事を対象化して冷ややかに眺めるのに対して、それは、相互主体的かつ相互行為的にみずからコミットする。そうすることによって、他者や物事との間にいきいきとした関係や交流を保つようにする。2、近代科学の知が普遍主義の立場にたって、物事をもっぱら普遍性の観点から捉えるのに対して、それは、個々の事例や場合を重視し、物事の置かれている状況や場所を重視する。つまり、普遍主義の名のもとに自己の責任を解除しない。3、近代科学の知が分析的、原子論的であり論理主義的であるのに対して、それは綜合的、直感的であり、共通感覚的である。」
以上で、従来の講義形態が本来、維持し得ないことがわかる。
↓
では、なぜこういう形になるか。 ①真理の特権性を剥奪し、多様な知がすでに参加者に配分されているはず。それらの知を動員し、新たな知を作り上げること。蓄積よりも自明性を動揺。
②なんのための知か? 「よりよく生きる」
今ある否定的な状態を具体的に解決すること。
③だれのためか? 自分のためだ。
④解決すべき問題に方向づけられた知の動員・収集・・政策立案という形になる。 すべきことがないなら、わざわざ考えるな。
⑤参加者は、課題達成にむけて相互協力を約束する契約主体だ。
⑥相互批判の効用、競争の効用(資本主義の良いところだ)
⑦評価は結果だけだが、その分、過程を楽しむ。
⑧対象との身体的相互行為が確保されるテーマ
講義というできごとが成立する為に必要な要件
①確定された真理の存在、もしくはその途上にある知という信念
②真理は客観的で合理的である、それゆえに共有可能で、説得的に教授可能
③真理もしくはその途上にある知を習得した者
④真理もしくはその途上にある知を習得しようとする者
付随的に、一対多のコミュニケーション形態である理由
⑤習得しようとする者が多数の場合、時間的経済性が確保
⑥習得しようとする者への平等な対応が可能
a講義としての実践的推論、秩序化作業を参加者が不断に行うこと
①②の存立不可能性(③④)を以下の五つの 反省を通じて、明らかにする。
1、科学哲学的反省
2、社会学の社会学的反省
3、真理のフーコー的反省
4、社会学の現象学的反省
5、社会学の実存主義的反省